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長野県


まつもとじょう

松本城(深志城) (長野県松本市松の内)
天守:現存天守(国宝)  日本100名城
戦国期の主な歴史
永正年間(1504~1520)に信濃守護・小笠原家が林城の支城として築城し、深志城と呼ばれる。
1550年 武田信玄の侵攻。守護・小笠原長時が追放され、武田家重臣・馬場信春が深志城代となる。
1582年 武田家滅亡。天正壬午の乱後、徳川麾下・小笠原貞慶が城主となり「松本」と改名する。
1590年 徳川家康の関東移封に伴い小笠原家も移封。その後、石川数正が城主となり、城郭整備を始める。
1593年 石川数正病没。子・康長が城主となる。
1613年 康長、大久保長安事件に連座して改易。小笠原秀政が城主となる。
1617年 小笠原家が移封。戸田(松平)康長が入城する。
(メモ)
もとは深志城があった場所だといわれる。
石川数正による築城当初は望楼型だったが、のちに層塔型に改修された。
月見櫓は江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代に増築されたもの。
現存天守(国宝) 複合連結式層塔型 月見櫓
黒門(復元) 太鼓門(復元) 玄番石

松本市立博物館

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

戸田康長所用 紺糸威二枚胴具足
 戸田松本初代藩主・戸田康長所用の具足。戸田家の家紋・六星紋が各所に施されている。康長が大坂の陣で着用した。



さなだほんじょう

真田本城 (長野県上田市真田町)
天守:なし
戦国期の主な歴史
天文年間(1532~1555) 真田幸隆によって築城されたといわれる。
1541年 海野平の戦い。真田幸隆、武田信虎らに敗れ上野国へ亡命する。
1551年 真田幸隆、武田信玄の命で戸石城を落城させ本領に返り咲く。
1583年 真田昌幸上田城を築城。本城を上田城に移す。
(メモ)
 建造物は全くないが、城跡は綺麗に整備されており、縄張り図通りの様子を見ることができる。
 真田幸隆が築城する以前から山城があったと考えられている。



といしじょう

砥石城 (長野県上田市上野)
天守:なし
戦国期の主な歴史
築城年は不明。真田本城の支城として築城されたといわれている。
1541年 海野平の戦い。真田幸隆の亡命後、村上義清の支配下に入り大改修される。
1550年 砥石城の戦い。村上義清、武田信玄を撃退する。
1551年 武田家臣・真田幸隆によって落城する。
1585年 第一次上田城合戦。上田城の支城として活用される。
1600年 第二次上田城合戦。真田信幸によって攻められ開城する。
(メモ)
本丸跡まで整備されているが、かなり疲れる。入り口には「なめんなよ!」と書かれた石碑がある。
海野平の戦いで武田信虎と共に勝利した村上義清が、小県郡、佐久郡攻略の拠点とした。



うえだじょう


東虎口櫓門
上田城 (長野県上田市二の丸)
天守:なし  日本100名城
戦国期の主な歴史
1583年 真田昌幸によって築城される。
1585年 第一次上田城の戦い。真田昌幸、徳川勢を撃退する。
1600年 第二次上田城の戦い。真田昌幸、徳川勢を足止めする。
1601年 破却される。真田信幸(信之)、上田藩の政庁として屋敷を構える。
1622年 真田信之、松代へ移封。仙石忠政が入城する。
1626年 仙石忠政、幕府の許可を得て再建を始める。
(メモ)
 真田信之は三の丸跡に屋敷を構えて統治を行い、本城は沼田城とした。
 真田家時代の建造物は残っておらず、現存する三基の櫓(うち二基は移築)は、いずれも仙石忠政時代のもの。
南櫓 真田石 西櫓

上田市立博物館  上田城跡内にある

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

真田昌幸所用 啄木糸(素懸)威伊予札具足
 真田昌幸の具足で、佩楯と籠手に真田家の家紋・六文銭が施されている。のちに家臣に与えられた。

松平信一所用 黒糸威三葵紋柄具足
 松平信一所用の具足で、籠手、胴、佩楯に葵紋が施されている。ミミズク型の兜も特徴。



かわなかじまこせんじょうあと

川中島古戦場跡 八幡社 (長野県長野市小島田町)
 川中島の戦いは、1553年から1564年の間に5回、武田信玄上杉謙信の間で行われた。
 5回の戦いの中でも1561年に行われた第4回の戦いは、熾烈を極め、決戦場となった八幡原の戦闘では、両軍合わせて最大8千の死傷者がでたといわれる。
 戦いの前半は、信玄の軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」を見抜いた謙信が有利に進め、後半は、信玄本隊の救援に駆けつけた高坂昌信真田幸隆らの活躍で武田軍が盛り返し上杉軍を撤退させた。戦い自体は引き分けに終わったが、この戦いで信玄は、実弟・信繁と軍師・山本勘助を失っている。
(メモ)
 激戦地となった八幡原は史跡公園として整備されており、隣接する八幡社には信玄と謙信の一騎打ちの像が建てられ、すぐ近くには戦没者を弔った首塚もある。両者の一騎打ちは、実際にはなかったと思われるが、そのような逸話が生まれるほどの激戦だったことを物語っている。
武田信玄上杉謙信 一騎打ちの銅像 八幡社 首塚



まつしろじょう


太鼓門
松代城(海津城 (長野県長野市松城町)
天守:なし  日本100名城
戦国期の主な歴史
1559年 武田信玄の軍師・山本勘助により築城。「海津城」と呼ばれる。
1560年 城が完成。小山田虎満ののち、高坂昌信(春日虎綱)が城代になる。
1561年 第四次川中島の戦い。
1582年 武田家滅亡。森長可が入城するが、本能寺の変後に退去。
同 年 天正壬午の乱。上杉景勝の支配下に入り、須田満親が城代となる。
1598年 上杉景勝、会津へ転封。豊臣秀吉の直轄地となる。
1600年 森忠政が入城。城名を「待城」と改名。
1603年 森忠政転封。松平忠輝が入城。
1616年 松平忠輝改易。松平忠昌が入城。城名を「松城」と改名。
1619年 松平忠昌転封。酒井忠勝が入城。
1622年 酒井忠勝転封。真田信之が13万石で入封。城名を「松代城」と改名。
(メモ)
元は海津城があった場所。太鼓門と北不明門が復元されている。
戌亥隅櫓跡(天守台) 北不明門 海津城跡の石碑
真田宝物館

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

真田昌幸所用 皺韋包昇梯子文二枚仏胴具足
 真田昌幸所用の具足で、黒漆塗の仏胴に昇梯子の文様が銀箔で描かれている。本来は赤漆塗の胴だったが、火災による復元で黒漆になった。

真田信之所用 萌黄糸威二枚胴具足
 真田信之所用の具足。兜は黒漆塗唐冠形。兜の後立、胴、籠手にそれぞれ六文銭の装飾が見られる。



たかとうじょう


高遠城遠景(殿坂口方面から)

仁科盛信と中臣鎌足を合祀した
新城藤原神社
高遠城 (長野県伊那市高遠町)
天守:なし  日本100名城
戦国期の主な歴史
築城年は不明。戦国期には諏訪家の一門・高遠家の居城として存在した。
1541年 城主・高遠頼継武田信玄と手を組み諏訪頼重を滅ぼす。
1545年 高遠頼継、武田信玄に臣従する。
1547年 武田家臣・山本晴幸(勘助)により城の改修が行われる。
1556年 武田家臣・秋山虎繁(信友)が城代となる。
1562年 虎繁が飯田城代となり、諏訪(武田)勝頼が城主となる。
1570年 勝頼が武田家の後継者として甲府に呼ばれ、武田信廉が城主となる。
1581年 信玄の五男・仁科盛信が城主となる。
1582年 甲州征伐。仁科盛信、織田勢相手に奮戦するも討死。
同 年 本能寺の変後、織田、徳川、豊臣の順で支配者が変わる。
1600年 徳川家臣・保科正光が2万5千石で高遠藩主となる。
(メモ)
 甲州征伐において唯一織田勢に対して激しい抵抗があった城として知られる。
 桜の名所として桜の保護にすごく力をいれているのが感じられるが、遺構もしっかり保存されおり、城全体の縄張りが分かりやすい。
 曲輪と曲輪の間にある堀が深く堅城であったことが分かる。だが、城自体の規模は大きくないので、織田勢3万(5万とも)に攻められては落城もやむを得ない気がする。
 初代藩主・保科正光は、徳川秀忠の庶子・正之を養子に迎え跡を継がせている。
 江戸大奥の大スキャンダル「絵島生島事件」で絵島が流された場所でもある。絵島が幽閉された「絵島囲み屋敷」が伊那市立高遠町歴史博物館に復元されている。
 機会があれば、伊那市のソウルフード「ローメン」をご賞味あれ。
本丸跡 本丸跡にある太鼓櫓(移築) 空堀